ただ在るだけで

瞑想では、何もしない自分と共にいる。

『Do』ただ座るだけ『Be』在るだけ

自分という存在のあり方について、仏教の『縁起』。現象あるいは存在は相互依存関係であるがゆえに、周りの存在とどうあるべきなのかを、すごく腑に落ちる素敵なコラムを見つけたので紹介します。

相手の対応によって、自分が全開できることもあれば、逆に見る影もなく萎んでしまうこともある。できれば、自分の可能性を開いてくれる存在と向かい合いたいものである。そんな自分をもっとも素晴らしい存在と思わせてくれる存在こそが、愛する相手であってほしい。(中略)一緒にいることによって、自分のいい面がどんどん出てくると感じられる相手こそが、本当の意味での伴侶となるべき存在なのだと、私は思っている。(中略)その人と話していると、どんどん自分が開いていく気がする。お互いにそんな存在として感じられるような関係こそが、たぶん伴侶と呼ぶにふさわしい存在なのに違いない。(中略)40年連れ添った妻を失った。彼女の前で自分がどんなに自然に無邪気に輝いていたかを、今頃になって痛切に感じている。

好きな人と一緒に暮らすことは自分を輝かせること 永田和宏京大名誉教授が語る「結婚の意味」より

このコラムの最後の行にジーンときました。

何もしてくれなくても、会えなくても、死んでしまっていてもその人の存在があるから心が豊かになる。自分が輝く。自分が好きになる。

あなたにとってそんな存在とは、どんな人ですか?

どんな人のそんな存在でありますか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です